久保田麻琴『世界の音を訪ねるー音の錬金術師の旅日記』を読んで

よく書いているように、僕は伝統的にその土地で鳴らされてきた音楽、所謂伝統音楽、民族音楽というものに、とても強く心惹かれます。

中学時代、ケルト音楽に興味を持ったことがきっかけで、アイルランド、バリ、ベネズエラボリビア、と、時にはマーチャンダイズドされた民族音楽を、時には現地に赴いて実際にその地で鳴らされる音楽を聞いてきました。

もちろん、実際に足を運んだとはいえ、例えばアイルランドで音楽を聴いたアイリッシュパブも音楽を商業的に売り出しているのではないか、と言われたら否定はできませんし、いくつかのパブはそうであったと思います。バリで見たケチャなどはその典型でした(ここでいう商業的、とは、当然音楽的に劣ることとはイコールではありません)。それでも、例えばアイルランドに滞在していたとき学生の間で行われたセッションや、片田舎の町のセッションに参加した時、やはりその土地で生まれた音楽が生活と一体になっているのを肌で感じたりしました。


そうした空間で鳴らされる、鳴らされてきた音楽がとても好きで、ミーハーながらもそうした音楽に造詣を深めてきました。


伝統音楽と生活に関しては、石橋純氏がとても腑に落ちる発言をしているのですが、それは次の機会においておくとして、今回は元「裸のラリーズ」「久保田麻琴と夕焼け楽団」メンバーにして、インドネシアをはじめ様々な国でプロデュースを行なっている、久保田麻琴氏の著作について感想を述べていきたいと思います。



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久保田氏はまずこの本の第1部で「ブラジル、レヒーフェのカルナヴァル」と「モロッコのグナウフェスティバル」「ワールドミュージックの祭典、WOMAD」それぞれの体験記を載せています。


ただ、正直専門用語が多く、当然音楽を並行して聞けるわけでもないとで、読んでいてとてももどかしかったです。


これは石橋氏の本(石橋純著 熱帯の祭りと宴 カリブ海域音楽紀行, 前述の通り、後日この本に関してもレビューを載せます)を読んでいてもいえたことなのですが、やはり石橋氏の本には聴けない音楽を本として「読ませる」文章力というか、表現力があったように思います。

対してこの本の、特に第1部は、ひたすら聴いた音楽の概要と感想と歴史のまとめに終始していたことが悔やまれます。逆に、自分の専門分野の音楽についてなら、面白く読めるのでしょうか。


第2部は、筆者へのインタビュー(聞き手田中勝則)です。

こちらがある程度読みやすく感じたのは、インタビューという形式ゆえか、ロックミュージックについても中心的に取り上げていたからか。

あと、ケルト音楽、ベネズエラコーヒールンバ、など、馴染み深いワードがあったためでしょうか(やはり前述の通り、自分のある程度知ってる分野に関しては面白く読めるものかもしれません)。

ただ、気になる記述もあったことは事実です。例えば筆者は次のように述べています。


「ロックンロールには、ケルト的な何かがあるのではと思いませんか?アメリカに移民して歌を持っていったのもアイリッシュの人たちが多いですし(中略)アメリカに持って行ったのはケルトの末裔ではないかな。」


その後、ケルトの意味する解釈の世間のイメージや専門家との違いを指摘された筆者はさらに次のように反論します。


「世間のイメージというのは、それはつまり、ゲール語のヴォーカルを幻想的に歌うエンヤのようなもののことですか?」


まず、ケルト的な何か、という表現が曖昧すぎることに違和感を覚えます。

例えば、アイルランド音楽をする人々はケルト、として一括りにされることを嫌う風潮があります。

ケルト的な、というのは、推論あるがゆえに抽象的である必要があゆにせよ、あまりに乱暴ではないでしょうか。


また、その推論の根拠も曖昧です。

アイルランド人がジャガイモ飢饉などで各地に散らばり、アメリカにたどり着いたアイリッシュとアメリカの土着の音楽の融合がブルーグラスを生み出したことは、両者で弾かれる曲(miss mcleod's reelなど)があることからも明らかです。

それに対して、彼の発言はそうした歴史事実とは異なる曖昧なものです。もちろんからもそれを承知で発言しているのですが、そもそもこの話に至った理由がパンクのファッションが古代ケルトの戦士に似ている、という話なので、話の脈絡がめちゃくちゃである点もいただけません。

彼の「ケルト的な」という曖昧な表現からもわかるように、彼はここではあくまで根拠のない持論を展開しているわけです。

それらをもっともらしく記すのはやめてほしい気がします。


専門外の分野に関しては、このように書かれて鵜呑みにしてしまう可能性があるので、少し心配になりました。



蛇足ですが、久保田氏はコーヒールンバ(原曲はhugo branco氏作曲のmoliendo cafeというベネズエラの曲です)をインドネシア版にアレンジした「コピ・ダンドゥット」のプロデュースもしたらしく、それは一度聞いてみたいと思いました。



この人はラテン嫌いというか、スペイン語圏の音楽が苦手らしいのですが、ブラジルはポルトガルだからオッケーだったり、コーヒールンバはオッケーだったり(これに関しては、本人が、根拠はないけどありゃ多分南米土着のものが混じってるからだ。と発言していました。しかしそれは南米の他のスペイン語圏の音楽に関してもそうであるはずなのですが…)よくわからないですね…。


本人は前置きで「私が本書を書くときの基本的な心構えは、まず柔軟であろうとすることだった」として、それが生き方の理想だとさえ述べていますが、それならもう少しいろんな音楽に柔軟に触れてみては…とも思ってしまいました。