キアランカーソン著 守安功訳「アイルランド音楽への招待」を読んで

この本の著者であるキアランカーソンは、この前に紹介した栩木氏の本に出てくる、北アイルランド出身の詩人、音楽家の方です。この方は他にもアイルランド伝統音楽のあり方について書いたLast night's fun をはじめとした素晴らしい本を書いているそうなので、そちらもぜひ読んでみたいところです。

こちらの本の解説ですが、本当に素晴らしい解説を翻訳者である守安氏が書いてくださっているので、是非本著を読んだあとに、そちらを参考になさったほうが良いかと思われます。キアランカーソンの(誤解を恐れずに言うならアイルランドらしい)ブラックユーモアや、彼の一見過激とも読める主張に対する擁護もしっかりなされています。なので、このブログではあくまで僕のこの本に対する感想を述べていくにとどめたいと考えています。

この本は「招待」とタイトルに銘打ちながら、その割にはかなりディープな内容の本になっています。さらに言えば、一見書かれていることはわかりやすいのですが、その真意を理解するには、アイルランド音楽に対する深い理解が必要になるのです。特に、各章の終わりに挟まれるショートストーリーに関しては、アイルランド音楽を知らない読者は完全においてけぼりを食らうことでしょう。
 さて、ショートストーリーの中で私が印象に残ったのは、ウィリーコリガンと若者の話です。話の概要は以下のような感じです。

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フィドラーのウィリーコリガンはそのあたりでは上手いと有名なプレイヤーで、その村のあたりで知らない人はいなかった。その村にある若者がとめてほしいといってやってきた。若者はウィリーコリガンの家に一週間ほど泊まり、そしてウィリーに言った。
「その曲、間違って弾いてるよ」「チューニングも違っている」
ウィリーコリガンは有名なプレイヤーである。彼はすっかり怒ってしまい、若者にフィドルをぶん投げ、お前が弾いてみろ、と言った。そして若者が弾くと
「わしはもうフィドルなんかひかないぞ。お前はそのようにひくんだな」
とウィリーは怒り、若者は言った。
「正直、あんたがこの曲をもう一週間練習し続けやしないかとひやひやしてたんだ」

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このお話を皆さんはどう解釈しましたか?私は、アイルランド音楽のリバイバルのあと、都会にアイルランド音楽が流入し、アイルランド音楽のレベルが若者の間で大いに引き上げられたことの例えだと考えていました。実際、現地でも、上手いと思うプレイヤーは、若い人が多かったです。一方で、お年寄りのプレイヤーは、なんだか演奏がぎこちなく、お世辞にも「うまくてきらびやかな演奏」からはかけ離れている印象でした。

しかし、守安氏は全く逆の捉え方をしているようです。守安氏は、このような指摘をする無知な若者は、私たちの姿にもなり得る、と指摘しています。つまり、むしろ傲慢で間違っているはこの若者の方である、という見方です。私にはこの見方が全くなかったので驚くと同時に、新しい疑問が頭の中に生まれました。
それは
「私が上手いと思っていた演奏は、本当にうまかったのか?」
ということです。

アイルランド留学中にこんなことがありました。ミース州のダンボインという街でセッションに参加していたところ、一人の若者が現れ「スゴくうまい演奏」をしたのです。当然拍手喝采!僕は感動して、その余韻に浸りながら帰宅しました。
さて、家に帰ってその日の音源を聞き返したところ、僕は思いました。
「あれ、あんまりうまくない…?」
正確に言えば、うまいのですが、どうも場に合っていない感じがするのです。その時感じた疑問が、この本を読んでしっかり形になった気がしました。

一言で言えば、上手い演奏と、聴きたい演奏は違うのです。

上手い演奏は、間違いなく、正確で、装飾もたくさん入って、ズレてなく、アイルランド音楽のノリをしっかり捉えた演奏、でしょう。
その点ではあのバンジョーはパーフェクトでした。ライブでやればさぞ盛り上がるでしょう。
しかし、それでも、何度も繰り返し聞きたいとはあまり思えないのです。一言で言えば、「生活感」がないのです。

アイルランド伝統音楽は、他の民族音楽に漏れず、人々の生活に根付いた音楽です。音楽は生活と切り離されず、その一部としてあるのです。そのような音楽が、時を経て、いかに大衆のものとなっていったかをキアランカーソンはこの本の中で描いていました。そして、皆がCDを真似て音楽をすることによる音楽の画一化についても憂いていました。
アイルランドは生活の中にあった音楽、という点が大事で、決してこれみよがしに演奏して、表面的な上手いヘタで人を判断したり卑賤を問う音楽ではないのです。例えるならば、特大唐揚げは美味しいけれど、それだけを毎日食べ続けたら食傷気味になってしまうでしょう。逆に、ご飯はそれだけではあまり美味しくないですし味もないですが、それでも毎日食べたいなぁと思うようなものでしょうか(例えが正しいかわかりませんが…)

逆に、僕は次のような体験もしました。
僕がお世話になっていたメアリーという方は、アイルランド伝統音楽界では知らない人のいない有名な一族の一人でした。たまたま路上演奏仲間として仲良くなり、彼女のセッションに誘われた僕は、ものすごく失礼な話ですが、セッションに参加しながらこんなことを最初は思いました。
「あれ、あんまり上手くないなぁ」
しかし、それでも、僕は彼女のセッションに通い続けました。
なんというか、聴いているととても落ち着くし、彼女と一緒に合わせているとスゴく音楽が身近なものとして入ってくるのです。
そんな彼女は結構好き嫌いのはっきりした気まぐれな人で(蛇足ですが、この気まぐれさはむしろアイルランド人特有のコミュニケーションで、話を聞いてないわけではないのだと守安氏は指摘しています)、同僚のバンジョープレイヤーのバンジョーが「うるさすぎる」とよく僕に陰口を言っていました。しかし、その人はすごく上手いバンジョープレイヤーだったので、僕はなぜ自分は貶されないのにその人が貶されるのかよく理由がわかりませんでした。


今思えば、僕はメアリーの音に合わせることをセッションの目的としていたからかもしれません。そうしたコミュニケーションこそがこの音楽の本質で、どれだけうまいかは二の次なのだということが、この本を通じて、今までの経験からわかったのです。

アイルランドではそうしていた僕も、日本に帰ってからはうまくひけるようにと肩に力を入れすぎてしまっていた節がありました。そして、とにかく上手くなろう上手くなろうとしていたのです。

しかし、今回この本を読んだことで、目を開かされた気がします。肩の力を抜いて、しっかり音楽そのものを楽しみ、そして皆の音楽に耳をすまそうとおもいます。

上手いと言われる人より、一緒にセッションがしたいと思われる人になりたいです。


ごっぴ

p.s.
アイルランドにおいて良い演奏を褒める唯一絶対な方法は1杯おごることだとこの本に書いてあったので、このブログを読んでなにか良いなぁと思ってくださったら、よければパブで僕にあったときにぜひ。逆に僕はそんなあなたの演奏に1杯おごることでしょう。

p.p.s.

コブルストーンのセッションで毎週一緒に演奏させてもらってたITMA元会長ニコラスキャロランの名前が文中に何度も出てきて絶賛されているのを見て、改めて素晴らしいコレクターの方だったのだと実感しました