石橋純『熱帯の祭りと宴-カリブ海域音楽紀行-』を読んで


前に書いたのですが、僕はサークルでベネズエラ音楽をやっています。そこでお世話になっているのがこちらの教授で、そういう意味で(おこがましい表現ですが)見知った教授の本を読むのはあまりなかった経験で、一抹の気恥ずかしさを感じながら拝読しました。

ベネズエラ音楽について日本語で書いた文献は中々なく、そう言った点においても貴重な本です。それに、自分のしている音楽に関してその周辺領域にまで興味を持ってしまう性格上、読んでみたい本でもありました(この点に関しては、石橋氏が言い当て妙な表現をしているので後ほど言及します)。



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ベネズエラはもちろん、ハイチ、トリニダード・トバゴ、コロンビア、キューバ等、多くの国での石橋氏の音楽、いや、音楽を取り巻く文化との交流が、読者を引き込む文章によって綴られた一冊。


先日読んだ久保田氏の音楽紀行は、どうしても情報の羅列、というイメージがあり(最も、久保田氏も著作において書いていたように、本を書くという経験は、音楽家であった久保田氏は中々してきていなかったということが最も大きな理由であると考えます)それに比べるととても読みやすかったです。


内容もラテン嫌いの久保田氏とは対照的で、(タイトルの通り)カリブ海域の音楽、祭、宴に焦点を当てたものとなっています。

さらにこの本ですごいのは、例えばドミニカ等で演奏されるリズム、メレンゲの起源についての仮説を立てるなど、紀行文としての体裁をなしながら研究的な面においても大変興味深い内容が書かれていることです。メレンゲの起源について書かれた章の、書斎にて、のタイトルの通り、これは石橋氏の本分である教授としての思考の産物です。そうした面を普段演奏の指導を受ける学生の立場として垣間見ることができるのも大変面白かったです。


まず、前書きに大きな感銘を受けた記述があったので引用します。


「ひとたびカリブ海域を実際に訪れてみると、『この地域の”音楽文化”は豊かだ』という言い方がしっくりこないことにきづく。この地域に豊かなのは、『音楽をとりまく文化』なのだ(中略)欧米や日本の市場に流通するCDなどの作品、商品は、こうした文脈から、『音楽』だけを切り取ったモノにほかならない。それは、音楽エンターテイメントを消費する視点からは『おいしい部分』であるに違いないが、祭りと宴を生きる視点からは『出汁ガラ』に過ぎないということもできる。」


これはまさにアイルランド音楽においても多くの演奏者達が主張していることです。本当の音楽は、地元のパブでしか学ぶことはできない、と彼らは言います。なぜなら、その音楽は、アイリッシュパブでの語らい、宴の中で、長い時を経て、醸成されてきた、パブの文化と不可分だからです。


そうした意味で、音楽に触れようとする以上、それをとりまく文化全体に目を向けなければならない、というのはとても腑に落ちる主張です。


単純ですが、このような言い当て妙の記述が前書きにあると、本への期待度が一気に高まりますよね。


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トリニダードのカーニバルや、歴史あるスチールパンの話、ハイチでのvoodooとの交流、ドミニカの酒場での熱い宴、など、どの話も大変興味深いものでした。前述のように、祭りや宴の文化と音楽が切り離せないものと考えているからこそ、祭り、宴そのものに焦点を当てており、またその様子を的確かつ詳細に表した文章もあって、とても楽しく拝読させていただきました。


特に面白かったのは、キューバで石橋氏が出会った無名音楽家の話です。たった一度の出会いが忘れられず、20年の時を経てキューバでの再会を果たした無名音楽家が語るその半生は、とても普遍的で、だからこそとても親近感のあるものでした。幼少時代から、音楽家として各地を飛び回るまでの彼の人生が詳細に語られるこの章を読むと、音楽文化は一部の音楽家だけが牽引したものではないと強く感じます。多くの無名音楽家、そして、音楽家ですらないさらに多くの人々の、誤解を恐れずにいうなら、その普遍的な人生の糸によって織られていったものであることを再確認させてくれました。


烏滸がましいですが、音楽と文化の不可分性を重んじる音楽に惹かれてきた者の一人として、この本は大変刺激的で印象的なものでした。


ごっぴ