サミュエル・ベケット『ゴドーを待ちながら』を読んで

サミュエル・ベケットは、アイルランド出身、フランス語で多くの作品を残した作家です。ゴドーを待ちながらは彼の代表的な戯曲で、「不条理劇」の金字塔と言われています。

普通の作品は起承転結があり、ストーリーがしっかりしているのにも関わらず、この作品は、ひたすらきやしないゴドーなる人物を待ち続けるヴラジミールとエストラゴンという二人の会話を描いています。二幕に分かれているのですが、どちらでも同じようにゴドーを待つ退屈な一日が繰り返され、劇は終わってしまいます。


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木の下で、退屈を紛らわすため徒然なるままに会話を続けながらゴドーを待つエストラゴンとヴラジミール。


エストラゴンが「もう行こう」

というと、必ず以下の会話が続きます。


ヴラジミール「だめだよ」

エストラゴン「なぜさ」

ヴラジミール「ゴドーを待つのさ」

エストラゴン「ああ、そうか」


エストラゴンは多動症、短期記憶障害のけがあり、いつもせわしなく動いているし、すぐに起こったことを忘れてしまいます。


そんなエストラゴンに対してヴラジミールは、時にはイライラし、時にはむしろ独自の妄想を披露してイライラさせながら、漫才のような会話を展開していきます。


物語の途中においてポッツォとその奴隷のラッキーという二人の人物が出てきますが、彼らもたわいもない会話をするだけで去っていってしまうのです(一幕でラッキー暴虐の限りを尽くしていたポッツォは、二幕では盲目になって現れます。転んで騒ぐポッツォをヴラジミールがしばくあたりの描写は痛快)。


そして、一幕、ニ幕共に、突然現れた男の子が、今日ゴドーは来られないこと、明日にはくることを告げて去っていくのです。


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妄想癖のあるヴラジミール、多動症、短期記憶障害のエストラゴン、ヒステリーのポッツォ、奴隷生活を続けておかしくなってしまったラッキー、と、正直まともな奴が一人も出て来ないので、こちらも見ていて気が滅入ってしまいます(あえていえばヴラジミールがまともなのてすが、からもその時々で意見がコロコロ変わったり、突然哲学的命題に取り憑かれたりするので、やはりあまり友達にしたくはありません)。

むしろ、唯一まともに見えるヴラジミールこそが気が狂っているのかもしれないと感じるほどで、特にヴラジミール以外が誰も前日の出来事について覚えていないと発覚した二幕では、ヴラジミールの方こそ狂っているというコペルニクス的転回的な発想が頭をよぎりました。


ただ、彼らの繰り広げる会話はそうした背景もありなかなか面白かったりもします。


ヴラジミールとエストラゴンがラッキーの帽子を交換して回していくシーンや、考えることを強要されたラッキーの四ページに渡る一人語りのシーンなどは、戯曲としてもとても斬新な表現で、そういった意味でも読み応えはある作品です。


最後に、ゴトーが何のメタファーであるかで議論があるようですが、個人的には、単純に待ち合わせの場所に来ない怠惰な謎の人物として解釈しています。神だとか死だと考えるより、その方が二人に感情移入しやすいですし。

むしろ、最後に出てくる男の子や、作中唯一ずっと舞台に生えている木の存在、そしてそこで自殺をしようとして、その度に失敗する二人の行動に関してなど、他にも数多く議論すべき点はあるように思えます。


サミュエルベケットは、「いざ最悪の方へ」にて、このようなことを書いていました。



Ever tried.Ever failed.No matter.Try again.Fail again.Fail better.



ベケットは、人生における半永久的で怠惰で退屈な日々の繰り返しについてを、ひたすらリアルに描写しようとした人のように思えます(『いざ最悪の方へ』でも、意図的に同じ表現を繰り返し用いていました)。

そうしたベケットの作品は、当時のフランス人たちにとってのエンドレスエイトであったのかもしれません。



なんて偉そうに締めくくりましたが、それでも、もし僕が前評判を知らずにこれを見たら、多分当時のフランスの人たちみたいに怒るだろうなぁ、とも(笑)




ごっぴ